高校生時代の話(進路編)

冬休み、授業の進度

 時間数が足りない、授業日数が足りないというのは本当でした。なぜなら、冬休みが大幅にカットされたからです。12月は27日ぐらいまで、1がつは5日ぐらいまでしかなかったような気がします。

 授業の方はもっと悲惨でした。授業のない開校日がたくさんあったのだから、必然的に授業は遅れます。

 教科書というものは、今現在自分が教員をやっていて実感していることですが、標準単位数では絶対にすべてを教える事が出来ません。教師は常に教科書の内容の取捨選択を強いられています。

 すなわち大事だと思われる部分を重点的に説明し、なるべく多くの生徒がわかるような授業を展開するか、すべてを教えるためにあまり細かい部分には触れず、表面的に教え、あとは生徒の努力次第、とする二つの方法しかないということです。

 通常の授業ですらそのような状態です。ましてや数か月分の授業時間が削られれば、その影響は計り知れないものがあります。

 教科書のあちこちが跳ばされ、しかもとんでもない速度で授業が進行しました。私の場合幸いにも1年だったので良かったようなものの、上級生は受験を間近に控え辛かったと思われます。

 だからこそ授業再開の提案を支持してくれたのかもしれません。


私個人への影響

 授業再開と同時に、生徒側の意見も一部学校側が妥協する形で受け入れられました。

 制服から制服を含む私服可となりました。制服についてはかなりクラス討論を真剣に行いました。私服にすると目立つためだけの奇抜な服装をする生徒が必ず出るに違いない、という意見も一部の生徒から出ましたが、あくまで自主性を尊重しよう、という意見に集約されていきました。

 当然教員も似たような心配をしていたと思われます。

 結果は、意外でした。ほとんどがおとなしい服装でした。なんだ、心配するまでもなく、みんなまともな服装じゃないか、というのが率直な感想です。もっともこれは当時の私の印象で、大人から見たら、許し難い服装をしていた生徒もいたかもしれません。

 校則が変わったのと同時に、学校行事にも変化が見られました。授業時数の確保、という制約があったせいか、行事が大幅に削減されました。遠足も修学旅行もなくなってしまったような気がします。要するにひたすら授業をするということです。

 私個人にもっとも影響が大きかったのは、教育への関心でした。今振り返ってみると、バリケード紛争と同時期に自我の確立という面倒な思春期の成長過程に突入し、悩みが一挙に押し寄せていたようです。

 何のために生きるのか、何のために勉強するのか、何のために生活するのか、という青臭い、しかも答えの出ない悩みが次々と現れました。

 一方で教育は両刃の剣である、ということがなんとなくわかってきました。教育の重要性と教えることの素晴らしさを理解すると共に、指導法を一歩誤ると、その影響は個人の人生を破壊しかねない影響力を持つ、ということを認識しました。

 また使い方によっては、洗脳すら行えるかもしれない、ということにも気が付きました。

 しかし、他人に自分が持っている知識を伝達するという作業は魅力的に感じられました。別に偉ぶるつもりはなく、。単に、そのような行為を通して、自分が社会に貢献できる、という認識を得られたことが大きかったと思います。

 結果的に私を教職に向かわせた、と今は思っています。結局人間は他人のために何かを行うことを通して、自分の存在感を確立していく動物なのではないかと思っています。

 裏を返すと、社会の中で自分の存在感を持ち得ない人は、気持ちが荒れたり、孤立したりするのだと思っています。

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