体力の限界か? 

 2月21日(土)。病室に入ると、またしても悪寒で震えていた。しばらくすると解熱剤の効果があらわれ、落ち着いてきたので、ベッド右側に椅子を持ってきて、たまたまテレビでやっていた猫の番組を一緒に見た。なぜか猫の仕草は癒し効果がある。

 話をしながら、手や背中をさする。結局、癒し効果を期待するにはボディタッチが一番いいように思える。今まで感染を恐れるあまり、また病室内では照れくささもあって体に触るのを極力控えてきたが、ここまできたら愛情を充分に伝えたい。

 熱が下がり、時おり苦しそうな咳が出るものの、全体症状としては落ち着いているように見えたので帰宅。

 しかし、今やメモする字も震え、話の内容に脈絡がなくなり、時間の感覚も少しずつずれてきていることがはっきり分かる。Yの立場からすると、毎日が走馬灯のように過ぎ去り、その合間に家族が入れ替わり立ち代り現れているように見えるのではないだろうか。

 体重はさらに増加。明らかに異常だ。体液が全身に湿潤しているとしか思えない。ほんの数日で5キログラムぐらい増えた。酸素吸入を行っているが、血中の酸素濃度は94に低下している。

 22日(日)。心配な部分はあったが、息子に母親の現状を見せる必要を感じて、病院に連れて行った。事前に「下手をするとまともに話が出来るのも今日が最後かもしれない」と言い含めた。

 息子にとって、常時酸素吸入を受けている母親の姿はかなり衝撃的だったと思う。しかし、意外に冷静に対処してくれた。

 始終来ている私に比べて実感が少ないのかもしれない。いなくなってから初めて寂しさを感じるのだろう。ここ1年半の父子家庭生活で耐性が付いたとも思える。

 マスク越しに話す上に、ろれつが回りにくくなっているため言葉が聞き取りにくい。それでもYは気丈になんとかしゃべろうとしている。その姿は涙を誘う。しかし病室ではそれは見せられない。あくまで客観的かつ冷静に振舞うよう努める。

 「好中球さえ増えてくればなんとかなるはず」という言葉をかけて、期待を持たせてはいるが、本当に増えるのかという疑いも強く持っているので、その言葉は説得力にかける。それでもYは、「そうだね」と言ってくれる。その健気な言葉に、またもや感情がゆさぶられる。

 全体の印象は、昨日よりまたちょっと悪化した感じ。咳が出始めると止まらないのがかわいそうだ。病室に息子を残して主治医と話し。

 「肺の粒状影は大きさが拡大傾向です。そのため病状は悪化しています。菌の正体はアスペルギルス(カビの一種)ではありません。白血病細胞でもなさそうです」

 「カンジダ(皮膚に存在するカビの一種)を疑っています。そのためにブイフェンドで治療を行っていますが、抹消血中に芽球、単球の割合が多く、正常な白血球が作られないため、病気の勢いに体が負けています。いつ何があってもおかしくないひじょうに厳しい状況です」

 ついにほぼ諦めに等しい言葉が、主治医からはっきりと告げられた。病室に戻る足取りが重い。息子やYの顔をまともに見ることが出来るか心配になる。

 気力を振り絞って病室へ。「もう少し頑張れば・・・」という頼りないごまかしの言葉を吐きつつ、息子を連れて家に戻った。どうにもならない腹ただししさと悔しさが胸中を駆け巡る。

 病室で「おいしい肉が食べたい」と言っていたことをふと思い出し、近くの店でもっとも値段の高い牛肉をほんの少し買い、その一部を自宅で焼き、保温に注意してポットに入れて再度病院へ。

 「おいしい!」と言いながら一切れだけ食べてくれた。その姿に思わずこみ上げるものがあるが、ぐっとこらえる。

 今日は血小板輸血もなし。いったい何回輸血しただろうか。これだけ輸血をしても、血球はほとんど増えない。もはやハワイアンを聴く気力も起きないようで、クラシックを聞きたがる。語り継がれて残っているクラシックは、やはり心の奥底にひびくのかもしれない。

 静かに体をさすっていると、うつらうつらしながら、寝言のような、うわごとのようなことを呟いている。内容は不明。だんだん起きているのか寝ているのか自分でも分からなくなりつつあるのかもしれない。いつのまにか酸素吸入の濃度も上がっている。

 夕方再び発熱の予感があったらしく、突然起き出し、自分で解熱剤を服用。帰り際、「愛している」と声をかけようと思い顔を近づけたが、その瞬間思わず出てきた言葉は「大好きだ。がんばれ」という言葉で、本人にはよく聞こえなかったようだ。

 しかし言った瞬間、目頭が熱くなり、泣き出しそうになってしまった。急いで窓際に行き取り繕うが、辛かった。あたり構わず号泣したい心境だ。

 この日の締めくくりとして、寝る直前にメール。「これまで面と向かって恥ずかしくて言えなかったけど、心底愛している」と送った。返事はない。寝ているのかもしれない。メールを読む気力も失せているのかもしれない。


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