治療方針

 5月17日(土)、再発入院2日目。

 息子と共に病院へ。Yは再発したとはいえ、表面的には全く問題ないので、病院併設のカフェテリアで昼を一緒に食べることにする。

 ここは病棟からは100メートルほど離れた場所にあるので、足の筋肉が萎えていた前回の入院では利用する機会がなかった。医師や看護師さんたちもたくさん食べに来ている。

 食事を終え病室に戻ってきた。主治医と会えたので、息子、Yとともに、別室で改めて状況を詳しく聞いた。

 最初にいつも通り経過説明。

 「今だから言えますが、入院当初(昨年)は大変危険な状態でした。主な症状は咳、息苦しさ、食欲不振、だるさといったもので、典型的な高カルシウム症状でいつ意識を失ってもおかしくない状態でした」

 「体の防衛反応が、カルシウムの濃度を薄めるために大量の水を要求し、それがもとで頻繁にトイレに行くようになっていました。診断は悪性リンパ腫のびまん性大細胞型第W期でした」

 「初期の治療は大量のステロイド剤で炎症を抑え、カルシウムをおしっこの形で流しました。しかしステロイドが切れるとすぐに腫瘍の勢いが増し、危険な状態になりました。このころリンパ腫は肺、肋骨、脊髄等にも広がっていました」

 改めて詳しく経過を聞くと、背筋が寒くなる。本当によく助かったものだと思う。

 話は続く。「最初は半量のCHOP療法、続いてCyclo BEAP療法を行い、10月に寛解に到達し退院となりました。さらにその後通院によって、リツキサンを2回投与し様子を見てきました」

 「ところが年明け、3月21日のCT検査で、鎖骨下部と左胸下部に影が見つかりました。確定診断を行うために気管支鏡を使用しましたが、細胞は検出されませんでした。ただし間質にリンパ腫細胞が存在する可能性は否定できませんでした」

 「その後PET検査を行ったところ、左胸下部と乳房に集積が見られました。乳がんの可能性も検討されましたが、血液検査の結果は正常でした」

 「一方腫瘍マーカー(SIL―2R)は初回入院時(2007年6月)は18000で、退院時(2007年10月)は800でした。しかし、現在この数値が1090と上昇傾向が見られ、再発の疑いが強くなりました」

 ちなみに健常な人の数値はゼロに近いらしい。この数値があったからこそ、再発の疑いを強く持っていたのだろう。話はまだ続く。

 「そこで乳房の生検を実施したところ、びまん性大細胞が検出され、再発していることが確認されました」

 「また肺機能検査で、呼気の機能が衰えていることも分かりました。これは肺の石灰化により、肺の弾力性が失われている証拠です。クレアチニンの値もわずかながら上昇中で、治療を再開したほう良いと判断しました」

 治療を再開するのはやむを得ないとYも私も分かっていたが、治療方法と治療期間がどうなるのかに強い関心を持っていた。なぜなら、是が非でも夏にハワイに行きたかったからである。

 いささか無謀な考えと思われるかもしれないが、ハワイ行きがあるからこそ抗がん剤の副作用に耐えられるのであって、単に化学療法を受けるだけだったら、Yの気持ちはこれほど前に前向きになっていなかっただろう。

 そこで今後の治療方法について尋ねてみた。

 「基本的には化学療法です。内容はリツキサンとラステット、白金剤を併用します。この治療を2〜3コース行う予定です。また抹消血幹細胞移植も考慮しています」

 頭の中ですばやく計算。想像していたより治療期間が短めだったので、体調良好なYは「やったー!」と思ったらしい。私も同様だ。ただし抹消血幹細胞移植までは考えていなかったので、また勉強しなくてはいけなくなった。

 治療予定が分かり、体調も良好だったので、入院直後ではあるが、1泊だけ外泊を許可してもらった。これ以後、体調が良い状態での外泊は、そう簡単に出来ないだろうとの判断からだ。

 たまたま土曜日だったこともあり、久しぶりに我が家での夕食となった。本人はもとより息子もうれしそうだった。しかし表向きとは裏腹に、夜は今後のことを考えあまり安眠できなかった。


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