タイの歴史でバーンチェン遺跡の次によく出てくる名前が「ドヴァラーバディ王国」ということになるようですが、この名前、資料によっていろいろ変化しています。
タイ国政府観光庁のページでは「ドヴァーラヴァディー王国」となっていますが、ウィキペディアでは「ドヴァーラヴァティ王国」、となっています。
他にもドヴァラーバーティという表記もあって、私もブログ記事を書いたときに混乱。まあ現在でもタイの女性の名前をゴーゴーで聞いても、ちっとも分からないことが多いので、いろいろな読み方があってもやむを得ないのかなと思っています。
というわけでここでは以後タイ政府観光庁の名称「ドヴァーラヴァディ王国」に統一することにします。
でこの王国ですが、上記観光庁のページによれば、6世紀から11世紀にかけて、モーン族による都市国家、「ドヴァーラヴァデイ王国」が、タイ中央のナコンパトム県や、北部のランプーン県で成立していたと書かれています。
モーン族というのは、観光庁のページによれば、日本人観光客にとってはなじみ深いカムチャナプリのクェー川鉄橋のさらにその先。鉄道終点からミャンマー側に向かって150kmほど進んだところにモーン村というのがあるそうで、この辺りに住んでいた人々のことを指すのかなという印象です。
すぐそばにソンカーリア貯水湖というのがありますが、やはり人々にとって水は絶対に必要。しかしこんな山の中で生活が始まったというのはちょっと解せません。
道はミャンマー側につながっていますから、そちらから移動してきた人が定住したのではという気もします。
ちなみにナコンパトムには世界一大きな仏塔がある寺院「プラ・パトム・チェディ」があります。建てられたのはウィキペディアによれば4世紀だそうで、その後改修を経て現在の姿になっています。
私はそんな歴史的背景があることも知らずに、カンチャナプリのオプショナルツアーに参加した時、途中でこの寺院に立ち寄っているのですが、「なんだかでかい仏塔だな」という感想をもっただけで、今考えると実にもったいない体験だったと思っています。
さらに上記の都市国家は北部のランプーン県でも成立と書かれていますが、両者の距離は600kmぐらい?同じ都市国家だったという記述には納得できません。
そう思ってウィキペディアで、この都市国家について調べてみると、どうやら都市国家の連合体で、その勢力範囲は今のタイ王国のほぼ全土を占めていたという図も書かれています。
しかしそうなると逆に「本当かな?」という疑いも感じます。さらに資料によっては同時期にランプーン近辺で「ハリプンチャイ王国」という国を建てているようで、この年月だとドヴァーラヴァディ王国と時期が重なります。
また9世紀になるとカンボジア付近にあったクメール王朝が現在のタイ東北部に進入。その勢力が13世紀ぐらいまで続いたと書かれていて、こうなるとじゃあその頃のハリプンチャイ王国はどうなったんだ?と実に不思議。
実際図書館で「タイ/ラオス歴史紀行」という書籍を借りてきて読んでみたりしたのですが、巻末の資料編のページにこの時代の勢力地図も掲載されていて、それによればハリプンチャイ王国とドヴァーラヴァディ王国は同時期に存在した図が書かれています。
その後一時的にカンボジアからのクメール王朝が支配したと考えると辻褄が合いそうです。
このクメール王朝の支配は結構長く続いたようですが、その後タイ人がクメール人勢力を駆逐し、新たに誕生したのがスコータイ王朝ということになるようで、ここからは割と歴史がはっきりしてきます。
というわけで、私の関心はとりあえずここで一段落。次に気になったのが、ハリプンチャイ王国やドヴァーラヴァディ王国を築いた人々はどこからやってきたのかということ。
そもそもいきなり降ってわいたようにこの地に人々が暮らし始めたというわけではなく、どこからか移動してきたはずだということに関心が移り、調べ始めたことが母なるチャオプラヤ川の上流というか源流です。